雑なにっき

メモがわりに長めのつぶやきをしています。

インターネットとSNS時代における死について

お会いしたことはないけどオンライン上でやり取りがあって、ソシャゲでもフレンドだった方の訃報を聞いた。

 

ここでお名前を出すのはご本人の本意ではないだろうから伏せておくがインターネットではちょっと有名な方だった。Twitterにちょくちょく浮上されていたけど更新が1ヶ月前で止まっている。もうこの先、ご本人による言葉で浮上することはない。


あまりにも早すぎる死だった。それでも、まだ生きてるんじゃないかな?とも思ってしまう自分もいて、訃報を聞いて驚いて、すぐにしたことは"ソシャゲのフレンド欄を確認する"ことだった。確認すると、ログイン時間は1日前だった。不思議なこともあるもんだ。


私のやっているソシャゲはログインしていない日数が増えると、サポートで上がってこなくなる。なので、フレンドさんは最終ログイン日数が10日くらいになると、申し訳ないけど切らせてもらっている。なので、フレンドの最終ログイン日数は結構チェックしているので、Twitterもつぶやいてないし、ゲームにもログインしてないとなるとすぐにわかるので「最近ログインしてないな」とすぐにわかるはずだった。しかし、特にログイン日数も空かなかったため、私は気がつかなかった。


しかしその日の夜、ゲームのアカウントの名前の後ろに、昼間は無かった「@皆さんありがとう」という文字列が追加された。言葉を理解して、涙がこぼれ落ちた。ご遺族の方は、自分たちが大変な時期にも関わらずゲームのフレンドにまでご配慮をしていたのだろうか。そして、ログインが最近だからもしかしたら本当は生きてるんじゃないかという淡い期待はここで打ち砕かれた。


死は停止に例えられる。本人はもちろん、周りの人の中で動いていたその人の時間もそこで停止してしまう。SNS時代における死は、それまで続いてきたものがある地点でぶつりと途切れる、目に見える停止になってしまった。もしかしたら、ゲームから卒業されたんだなと判断して切ったフレンドさんの中には亡くなった方もいたのかもしれない。いたのかもしれないが、顔も名前もしらない、文字列でしか繋がってなかった私には永遠に知りようがない。


私のスマホには、数年前に亡くなった祖母の番号が未だに入っている。もう祖母には繋がっていないことはわかっているし、向こうからかかってくることもない、祖母の死はとっくに受け入れている。それでも、スマホから番号を消すことでスマホ上でも本当に死んでしまうような気がして消すことが出来ない。スマホから祖母の番号を消すことで私の中で二度死んでしまうような気がしてしまうのだ。


これからはフレンド欄の最終ログイン日数でソートする度に個人を偲んでいくだろう。アカウントの向こうに、故人はそこにいない。いないけど故人を示すものとして、戒名を書いた位牌のようなものになっていくのかもしれない。Twitterやソシャゲが好きな方だったので、向こうでもインターネットやソシャゲができてるといいのだけど。「今回のイベントストーリー熱いですね!」とか向こうと連絡できる手段があるといいのだけど。